2008-06-16

【「秋葉原無差別殺傷事件」を俯瞰する】



あくまでも個人の覚え書きです。記載内容の読解、利用による影響について責任は負いかねます。

2008年6月8日は、東京・秋葉原で無差別殺傷事件が起きた日として、多くの人々の記憶に残るだろう。
普段利用している場所のど真ん中(前日にも知人と待ち合わせた交差点……)で起きた事件であり、他人事とは思えない衝撃を受けた。亡くなられた方には慎んでご冥福を、心身に傷を負われた方には心より回復をお祈りしたい。

件の実行犯については同情の余地があろうはずもない。ただし、理解・共感できる点は少なくない。※ そう感じている人が多いのではないだろうか。だからこそ、政治、経済、治安、娯楽、あらゆる分野で議論を呼んでいる。ただし、その「議論」の中身はというと、オタク趣味がどうとか、ダガーナイフがどうとか、視野狭窄な動機論が展開されているようだが……。

彼は、現在報道されている生育環境を鑑みるに、「自己愛・誇大自己的な性格を肥大化させた」情報弱者なのではないかと私は考えている。例えば、三島由紀夫的なナルシシズムの発露-他者が見える形で置き換えることに執着した-であれば、鬱積した自己顕示欲は放散されていたのだろう。多くの人々が、この段階に理性を保っているのが「普通」だ。しかし彼の場合は、その手段が口唇的な自体愛、自己愛の段階で止まっていたように考えられる。そのような自己と他者が未分化の精神状態は、人間であれば(人間であるがゆえに)かならず持っているもので、その安定のために集団自己(グループセルフ)に帰属するのが普通だ。集団自己とは国、会社、学校、家庭、それらであり、それらの中での個人の役割関係であると考えるとわかりやすい。それが、非常に不安定であれば、個人の「気の持ちよう」などお構いなしに、躁にも鬱にも、狂にもなる。
つまり、彼には己の拠って立つ集団自己も、そこから弾き出された際に個人を保てるだけの価値観も、育まれることがなかったのではないかと思われる。
生育環境において、彼が過剰な保護-おそらくは母親の過干渉-を受けていたと報道されている。しかし、その干渉-保護は、彼が優等生でなくなった途端に外されと考えよう。何の失敗体験もない剥き出しの自我が、社会に放り出されたとしたら-? 本来その年代で知っておくべき、体験しておくべき人間関係・社会経験がない。人間社会で生きるための情報量が絶対的に不足している者-情報弱者が発生する。「普通」、彼らは彼らなりに-我々なりにと言い換えたほうがよいか-何らかの形で仲間を得たり、web上で交感したりして、情報の格差を、心のスキマを埋めようとする。しかし、その手段や機会がなければどうなるか。自分に自分で干渉し、保護し、愛し、それまでに「育まれた」価値観に必死ですがりつくしかない。この状態を情報弱者と呼ばずして、何と呼ぼう。しかし現実は異なる。だから、自己の肥大化と、矮小化が同時に進行する。いずれ、耐え切れなくなる。
この点において、多くの「共感者」がいるに違いない、と思えるのだ。「就職氷河期」と呼ばれている、半ば国から打ち棄てられたような世代には、とくに-。

同じようなことは、国という単位でも起こっている。日本は終身雇用制と年功賃金制に拠っていた。それが20世紀末に飽和・崩壊する兆しを見せると、成果主義という名の効率性を優先するようになったわけだ。そしてそれをお題目として、本来制限されていたはずの「直接雇用ではない労働力」、つまり派遣業務者を、雇用形態として認めてしまった。ここに生まれ、急速に膨れ上がった労使関係の歪み。ワーキングプア、ネットカフェ難民、「働いたら負け」といった言葉までがあふれかえるご時世。秋葉原に限らず、渋谷や新宿の喧騒の中で、あるいは満員電車に詰め込まれているとき、「ここでマシンガンを乱射したら……」「日本刀を振り回したら……」と考えることは誰にでもあるだろう。もちろん、そんなことをするわけがない。家族や親戚が悲しみ、同僚に迷惑が及ぶことがわかりきっているからだ。

しかし、そういう「支え」を突然失ってしまうのが、今の世の中である。そんな現在の日本を覆っている暗さ、混迷がくっきりと、グロテスクな形で発現してしまったのが、今回の事件ではないかと思う。そういえば、この事件に先立って発生した、隣人を殺害し、溶解して遺棄するという事件もまた、容疑者は夢破れ、派遣業務に従事する若者ではなかったか-。
私は、派遣業務という雇用形態をあげつらっているわけではない。「不安」という、漠然とした恐怖。それが生み出す精神状態こそが、問題の本質にあると考えるものだ。

それは、リヴァイアサン(leviathan)を前にした絶望に似る


'k ´ー`)<※理解、共感はイコール「同調」ではありません。あしからず。

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